2009年 04月 13日
めずらしく推理小説で考えてみた。
昨日の日曜日は私にしては珍しく届いたばかりの推理小説「告白」湊かなえ著(第29回小説推理新人賞受賞)を読破しました。
もともと私はちょっと軽妙なタッチの(ちょっと軽い)推理小説が好きでして、高校生~大学生のころは流行りの赤川次郎の単行本を当時はほとんど購入して揃えていました。
中学生のころは星新一などを読んでいました。この頃にSF小説が大好きな友達がいて、その影響からこれらの種類の本を読み始めたのかなと懐かしく思います。
小学校入る前から絵本の「チャイクロ」や百科事典を読み漁っていましたから、本はもともと好きなんでしょうね。
それで、推理新人賞を取られていたのでネットで本をぶらぶらと見ていたらちょっと目にとまって衝動買いしたものですが、口コミ書評では「読むと暗くなる」という意見も多く、覚悟はしていましたが確かにちょっとやるせない感覚で暗くなりました。
ラストもちょっと私としては不満足でした。
しかし、未成年(少年)の心の葛藤と犯罪を描いているという点で私としては大変興味深いものでした。
もともと私は大学では法学部に在籍しました。その時には一切「少年法」などは勉強しなかったのですが、今自分が子供を持ってみるとその法律に興味があります。
もともと法律は人間が作り出したものです。自給自足していた時代・外部に自然の脅威が多かった時代は集団で生き残るために「社会」を形成し、その社会を維持するために「秩序(ルール)」は必要でした。
更に自給自足をしなくなった現代では、やはり「社会」を形成していないと生活ができないということになりますから、「社会」を形成し維持する「秩序(ルール)」の必要性は一向に減っていないと思います。
その「社会」を維持するには一定のルールが必要になります。それは「倫理、道徳や宗教」もありますが、それだけでは維持できないために「法律」が定められます。
つまり、ほとんどの法律は社会維持(もしくは社会制度の構築)システムの「手段」でありますから、あくまでも人間本来の存在とは別次元の話になります。
人間は動物ですから、本来本能で行動します。しかし、その人間の本能が社会維持の障害になるのであれば、それは抑制・阻止しなければなりません。それが法律の目的の一端です。
そして、なぜ少年犯罪は刑法によって裁かれずに原則として保護更生の処置となるのか。
先ほど書きましたように少年法を勉強していませんし、ほかの法律も浅学のために法理論を述べることは私にはできませんが、私が漠然と思うにはそれは少年には本能的な行動を規制する「教育」が十分になされていないと判断されるからではないでしょうか。(当たり前といえば当たり前の結論)
あくまでも後天的な「教育」により「本能を抑制して法を守る(=秩序を守る=社会を維持する)」という考えが身につくわけですから、それが十分になされていない少年に大人と同じ刑罰を与えるのは酷であり、「教育」により更生の余地があるわけです。
また、犯罪が先天的な脳の障害等や病気により起こった場合は、それこそ責任能力の有無が問われるわけですが、少年の場合はその前の時点で「教育」が十分であったかの観点も入るわけです。
これらは「加害者」の観点からのみになるので、昨今「被害者」の観点も斟酌しなければならないという世論も強くなっていますが、本来の少年法の趣旨はこのような観点からなのではないかと勝手に推測しました。
生まれながら「本能を抑制して、法を守ろう!」という子供がいないわけですから、当然の帰結なのでしょう。
成人でも、更生の余地により量刑が変わることがあるわけですから、その余地が少年においてはさらに大きく、すぐに刑罰の適用ができないことになります。
社会(家族や学校など)の教育が先に問われるわけです。
話は小説に戻りますが、このフィクションの小説において犯罪を犯した少年2人は家族・特に母親との関係においてコミュニケーションがうまく取れなくなって、社会的な教育がうまくいかなかった側面が描かれています。
父親不在(実際には一緒に生活しているが、少年たちの心の中には父親がいない)の原因もありますが、それを含めて家族の大切さを改めて感じました。
家族における教育は代々連鎖しています。少年犯罪を考えるときには、その家族とその周りの社会を考えないといけないと改めて思います。
家族が決して悪いことをしているわけではないのです。
ただ、やはり親が子供を教育することは必然です。責めるわけではありませんが、私も子供の教育の責任を改めて考えて頑張ろうと思います。
といって子育ては頑張れば成功するものではなく、全てにおいて「バランス」が重要だと今は考えています。偏愛も無関心も駄目ですし、誉めれば良いと言う訳でもありません。
子供の教育を考えたい人にはお勧めの一冊でした。
もともと私はちょっと軽妙なタッチの(ちょっと軽い)推理小説が好きでして、高校生~大学生のころは流行りの赤川次郎の単行本を当時はほとんど購入して揃えていました。
中学生のころは星新一などを読んでいました。この頃にSF小説が大好きな友達がいて、その影響からこれらの種類の本を読み始めたのかなと懐かしく思います。
小学校入る前から絵本の「チャイクロ」や百科事典を読み漁っていましたから、本はもともと好きなんでしょうね。
それで、推理新人賞を取られていたのでネットで本をぶらぶらと見ていたらちょっと目にとまって衝動買いしたものですが、口コミ書評では「読むと暗くなる」という意見も多く、覚悟はしていましたが確かにちょっとやるせない感覚で暗くなりました。
ラストもちょっと私としては不満足でした。
しかし、未成年(少年)の心の葛藤と犯罪を描いているという点で私としては大変興味深いものでした。
もともと私は大学では法学部に在籍しました。その時には一切「少年法」などは勉強しなかったのですが、今自分が子供を持ってみるとその法律に興味があります。
もともと法律は人間が作り出したものです。自給自足していた時代・外部に自然の脅威が多かった時代は集団で生き残るために「社会」を形成し、その社会を維持するために「秩序(ルール)」は必要でした。
更に自給自足をしなくなった現代では、やはり「社会」を形成していないと生活ができないということになりますから、「社会」を形成し維持する「秩序(ルール)」の必要性は一向に減っていないと思います。
その「社会」を維持するには一定のルールが必要になります。それは「倫理、道徳や宗教」もありますが、それだけでは維持できないために「法律」が定められます。
つまり、ほとんどの法律は社会維持(もしくは社会制度の構築)システムの「手段」でありますから、あくまでも人間本来の存在とは別次元の話になります。
人間は動物ですから、本来本能で行動します。しかし、その人間の本能が社会維持の障害になるのであれば、それは抑制・阻止しなければなりません。それが法律の目的の一端です。
そして、なぜ少年犯罪は刑法によって裁かれずに原則として保護更生の処置となるのか。
先ほど書きましたように少年法を勉強していませんし、ほかの法律も浅学のために法理論を述べることは私にはできませんが、私が漠然と思うにはそれは少年には本能的な行動を規制する「教育」が十分になされていないと判断されるからではないでしょうか。(当たり前といえば当たり前の結論)
あくまでも後天的な「教育」により「本能を抑制して法を守る(=秩序を守る=社会を維持する)」という考えが身につくわけですから、それが十分になされていない少年に大人と同じ刑罰を与えるのは酷であり、「教育」により更生の余地があるわけです。
また、犯罪が先天的な脳の障害等や病気により起こった場合は、それこそ責任能力の有無が問われるわけですが、少年の場合はその前の時点で「教育」が十分であったかの観点も入るわけです。
これらは「加害者」の観点からのみになるので、昨今「被害者」の観点も斟酌しなければならないという世論も強くなっていますが、本来の少年法の趣旨はこのような観点からなのではないかと勝手に推測しました。
生まれながら「本能を抑制して、法を守ろう!」という子供がいないわけですから、当然の帰結なのでしょう。
成人でも、更生の余地により量刑が変わることがあるわけですから、その余地が少年においてはさらに大きく、すぐに刑罰の適用ができないことになります。
社会(家族や学校など)の教育が先に問われるわけです。
話は小説に戻りますが、このフィクションの小説において犯罪を犯した少年2人は家族・特に母親との関係においてコミュニケーションがうまく取れなくなって、社会的な教育がうまくいかなかった側面が描かれています。
父親不在(実際には一緒に生活しているが、少年たちの心の中には父親がいない)の原因もありますが、それを含めて家族の大切さを改めて感じました。
家族における教育は代々連鎖しています。少年犯罪を考えるときには、その家族とその周りの社会を考えないといけないと改めて思います。
家族が決して悪いことをしているわけではないのです。
ただ、やはり親が子供を教育することは必然です。責めるわけではありませんが、私も子供の教育の責任を改めて考えて頑張ろうと思います。
といって子育ては頑張れば成功するものではなく、全てにおいて「バランス」が重要だと今は考えています。偏愛も無関心も駄目ですし、誉めれば良いと言う訳でもありません。
子供の教育を考えたい人にはお勧めの一冊でした。
by srmurakami
| 2009-04-13 18:38
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